初代貴ノ花の生涯と実態!北の湖との死闘から若貴育成までを徹底解説
昭和の大相撲黄金期において、細身の体躯と端正な顔立ちから「角界のプリンス」として国民的熱狂を巻き起こした大関・貴ノ花利彰(本名:花田満)。兄である「土俵の鬼」こと第45代横綱・初代若乃花の血を受け継ぎながら、怪力豪快な大型力士がひしめく土俵で繰り広げた気迫あふれる取り口は、今なお多くの相撲ファンの記憶に鮮烈に焼き付いています。
横綱・北の湖を破った涙の初優勝劇、満身創痍となり頸椎の負傷を抱え土俵を去った引退の舞台裏、そして名門・藤島部屋を創設して実子である若乃花・貴乃花の「若貴兄弟」をはじめ数々の名力士を育て上げた指導者としての足跡まで、昭和から平成の角界を牽引した激闘の歩みを多角的に検証します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:「角界のプリンス」として絶大な人気を誇り、大関在位50場所・通算422勝を記録した昭和を代表する名大関。
- 要点2:1975年3月場所の優勝決定戦で宿敵・北の湖を寄り切りで破り、師匠であり実兄の初代若乃花から涙の優勝旗を受け取った。
- 要点3:頸椎損傷など過酷な怪我を押して戦い抜いた現役引退後は、藤島部屋を興し実子の若貴兄弟や貴ノ浪らを育成して一大勢力を築いた。
【生い立ちと角界入り】「土俵の鬼」初代若乃花の弟として歩み出した道
初代貴ノ花こと花田満は、1950年(昭和25年)2月19日、北海道室蘭市にて10人兄弟の末子として生を受けました。誕生時、長兄である花田勝治(後の初代横綱・若乃花)はすでに22歳で幕内力士として活躍しており、巡業の合間に帰省した際、実家にいた満を結婚した姉の子どもと勘違いしたという逸話が残されています。両親から「お前の弟だ」と知らされた勝治は驚愕したと伝えられています。
少年時代の花田満は水泳選手として非凡な才能を発揮し、将来のオリンピック候補と期待されるほどの実力を持っていました。しかし、1955年に父親が他界したことを契機に一家は上京し、兄の初代若乃花を頼ることになります。やがて満自身も兄が率いる二子山部屋への入門を決断し、相撲の道へと進みました。
入門当初は本名である「花田」の四股名で土俵に上がり、十両転落や40度の高熱を押して出場したことによる肝機能障害といった幾多の試練に見舞われました。1969年5月場所より四股名を「貴ノ花」へと改めると、1970年1月場所で再入幕を果たして10勝5敗の好成績を収め、敢闘賞を受賞。ここから本格的な快進撃が幕を開けました。
【角界のプリンス誕生】藤田憲子との結婚と大鵬・玉の海との激闘
1970年9月場所、新小結の地位で9勝を挙げて殊勲賞を獲得した貴ノ花は、場所後に元女優の藤田憲子との結婚式を挙げました。媒酌人を二子山部屋後援会長である東京ガス社長(当時)の安西浩が務めるなど、大きな注目を集めた門出となりました。
翌1971年1月場所、貴ノ花は土俵上で負傷し途中休場を余儀なくされますが、この場所中に長男の勝(後の第66代横綱・3代目若乃花)が誕生します。病室で我が子の顔を見た貴ノ花は「この子のために頑張らなければならない」と心境を一変させ、精神的なたくましさを急速に身につけていきました。
同年5月場所5日目には、昭和の大横綱・大鵬に勝利を収め、大鵬はこの取組を最後に現役引退を表明することとなります。さらに9月場所では大関・清國を相手に足を取られながらも驚異的な粘りで逆転勝ちを収めるなど、細身ながら強靭な下半身を活かした取り口で観客を熱狂させました。横綱・玉の海には通算7戦全敗と苦杯をなめ続けたものの、その堂々たる相撲ぶりを深く尊敬し、目標として鍛錬を重ねていきました。
【激闘の記録】大関・貴ノ花利彰の公式戦績と歩み
日本相撲協会の公式記録に基づく、初代貴ノ花利彰の生涯戦歴および大関時代の主要記録は以下の通りです。
| 区分・項目 | 公式記録・データ | 主な実績・特記事項 |
|---|---|---|
| 生涯戦歴 | 726勝 490敗 58休(通算95場所) | 幕内通算578勝406敗58休(70場所) |
| 大関在位記録 | 50場所(歴代上位) | 大関戦歴:422勝 278敗 42休 |
| 幕内最高優勝 | 2回 | 1975年3月場所(北の湖との決定戦)、1977年1月場所 |
| 三賞受賞歴 | 計9回 | 殊勲賞3回、敢闘賞2回、技能賞4回 |
| 金星獲得数 | 3個 | 大鵬、琴櫻、北の富士から獲得 |
| 体格・得意技 | 身長183cm / 体重114kg | 左四つ、寄り、吊り、上手投げ |
軽量でありながら左四つからの深い吊りやしぶとい寄り身を武器とし、歴代屈指の大関在位50場所という長きにわたり看板力士として土俵を支え続けました。
【伝説の初優勝】1975年3月場所、北の湖との優勝決定戦
大関昇進後、体の酷使による慢性的な故障に悩まされていた貴ノ花は、1975年頃から単なる我慢をやめ、入浴後の温湿布や特殊器具による首・腰椎の牽引、外出時の保温カイロ着用など、科学的な身体ケアを導入するようになりました。この体質改善が実を結び、同年の3月場所では若三杉らと激しい稽古を重ねてもスタミナが切れない万全のコンディションを作り上げます。
13勝1敗で迎えた千秋楽の本割で、12勝2敗の横綱・北の湖に屈したものの、13勝2敗同士による優勝決定戦へと持ち込まれました。支度部屋で髷を整え黙想する北の湖に対し、貴ノ花は乱れた髪のまま無心で四股を踏み続けて出番を待ちました。
決定戦では仕切り直しが続き、制限時間を超えた4度目の立ち合いで両者が激突。北の湖が右上手を引き、貴ノ花が左を深く差して頭をつけて食い下がります。北の湖の豪快な上手投げを強靭な腰でこらえた貴ノ花は、右手を送り出して低く腰を落とし、西土俵へと寄り切って劇的な勝利を収めました。
館内には土俵が見えなくなるほどの座布団が舞い散り、悲願の初優勝が達成されました。表彰式では、相撲協会の計らいにより実兄である二子山審判部副部長から優勝旗が授与され、「土俵の鬼」と呼ばれた兄の目に光る涙が中継カメラに捉えられました。
【満身創痍の引退】頸椎の重傷と「泣きの杉山」が伝えた幕引き
常に頭から鋭く当たる愚直な取り口を貫いた代償として、貴ノ花の首は限界を迎えていました。慢性的な頸椎の損傷は神経を圧迫し、腕の痺れや握力の低下を引き起こしていきました。晩年は体重維持と体調改善を模索するも肉体の消耗は隠せず、1981年1月場所、ついに現役引退を決断します。
不戦勝の勝ち名乗りを受ける対戦相手・朝汐を見つめながら、蔵前国技館のファンからは「たかのはなー!」という悲痛な叫びと惜別の声が響き渡りました。この歴史的瞬間をNHKテレビ中継で実況していた杉山邦博アナウンサーは、「今日、貴ノ花関が引退です……」と伝えた直後に感極まって言葉を詰まらせ、涙を流しました。この生放送での情景は、のちに杉山アナウンサーが「泣きの杉山」と呼ばれる象徴的な出来事として広く知られています。
30歳11か月での引退劇でした。後に横綱へと登り詰める長男の3代目若乃花(29歳2か月)、次男の貴乃花(30歳5か月)もまた、奇しくも父親とほぼ同年代で土俵を去っており、花田家の力士たちがどれほど過酷に肉体を削って相撲と向き合っていたかを物語っています。
【指導者としての手腕】藤島部屋創設と「若貴ブーム」への継承
現役引退後、年寄・鳴戸を経て1982年に藤島を襲名した貴ノ花は、二子山部屋から分家独立して「藤島部屋」を興しました。後に実子である若花田(3代目若乃花)と貴花田(貴乃花)が入門する際、親方は「甘やかすことはできない。親子の縁は切る」と厳しく言い渡し、自らが兄から受けた厳格な指導方針をそのまま貫きました。
藤島部屋の稽古は質量ともに極めて濃密で、後の関脇・琴錦が「稽古量が多いだけでなく無駄がなく、最後の仕上げの補強運動まで関取も若い衆も全員で行っていた」と述懐するほど徹底されたものでした。この妥協なき育成環境から、若貴兄弟のみならず大関・貴ノ浪、関脇・安芸乃島、貴闘力といった名力士が次々と誕生し、相撲界屈指の強豪部屋へと成長を遂げます。
また、自身が若い頃に飲酒を強要された苦い経験から弟子の酒癖には細心の注意を払い、新弟子が相撲教習所に入る際には自ら挨拶に赴くなど、礼節を重んじる教育者としても高い評価を受けました。1993年に次男・光司が「貴ノ花」の四股名を継承(後に貴乃花へ改名)したことで、自身は「初代貴ノ花」と呼ばれるようになり、平成の大相撲ブームの礎を築いた名伯楽として歴史に名を刻みました。
【初代貴ノ花】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:初代貴ノ花と横綱・貴乃花はどのような関係ですか?
A1:初代貴ノ花(本名:花田満)は、第65代横綱・貴乃花光司の実父であり相撲の師匠です。次男の光司は初土俵時の四股名「貴花田」から1993年に父の名を受け継いで「貴ノ花」を名乗り、大関昇進後に「貴乃花」へと改名しました。
Q2:現役時代の主な引退理由は何だったのですか?
A2:長年にわたり頭から低く鋭くぶつかる相撲を続けた結果、頸椎を激しく痛め、満身創痍となったことが最大の引退理由です。腕の痺れや体力の限界に達し、30歳11か月で土俵を降りました。
Q3:「泣きの杉山」とはどのようなエピソードですか?
A3:1981年1月場所、貴ノ花の現役引退を実況していたNHKの杉山邦博アナウンサーが、中継中に無念さと感動のあまり落涙して言葉を詰まらせたことから、メディアやファンの間でそう呼ばれるようになりました。
昭和の土俵に刻まれた「気迫の相撲美」
初代貴ノ花利彰の相撲人生は、恵まれない体格を卓越した技術と不屈の闘志で補い続けた挑戦の連続でした。「角界のプリンス」という華やかな呼び名とは対照的に、その実態は激しい稽古と故障との闘いであり、強敵・北の湖を寄り倒した一瞬の輝きは、ひたむきな努力の結晶でした。
師匠として平成の角界を席巻した若貴兄弟をはじめとする数々の名力士を育て上げ、相撲の伝統と気迫の精神を次世代へと受け継いだ功績は、時代が移り変わっても色褪せることはありません。