近衛十四郎とは何者か?柳生十兵衛の殺陣と長い刀の秘密、家族・生涯・死因まで徹底解説

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近衛十四郎とは何者か?柳生十兵衛の殺陣と長い刀の秘密、家族・生涯・死因まで徹底解説
近衛十四郎とは何者か?柳生十兵衛の殺陣と長い刀の秘密、家族・生涯・死因まで徹底解説
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🎵 近衛十四郎とは何者か?柳生十兵衛の殺陣と長い刀の秘密、家族・生涯・死因まで徹底解説

近衛十四郎(このえ・じゅうしろう)は、戦前から戦後にかけて活躍し、映画とテレビの時代劇に強烈な足跡を残した剣戟スターです。東映の「柳生武芸帳」シリーズで演じた柳生十兵衛をはじめ、腰の据わった構え、鋭い剣さばき、通常より長い刀を生かした迫力ある殺陣で知られています。妻は女優の水川八重子、長男は俳優の松方弘樹、次男は俳優の目黒祐樹という芸能一家でもありました。

1977年5月24日に亡くなってから半世紀近くが経過した2026年現在も、近衛十四郎の名前は本格的な時代劇や剣戟映画を語るうえで欠かせません。新東宝から松竹、東映へと活躍の場を移した経緯、長い刀を使った独特の立ち回り、家族との歩み、晩年の暮らしと死因を時系列でたどると、単なる剣豪役の名優にとどまらない実像が浮かび上がります。

📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
  • 人物像:近衛十四郎は新潟県長岡市出身の時代劇俳優で、本名は目黒寅彦。剣戟スターとして映画・テレビの両分野で活躍しました。
  • 代表的な魅力:柳生十兵衛役と、約85センチの長い刀を生かした迫力ある殺陣が代表的な見どころです。
  • 映画会社の移籍:戦後に新東宝を経て松竹で再起し、1960年に東映へ移籍。「柳生武芸帳」シリーズなどで存在感を発揮しました。
  • 家族と晩年:妻は水川八重子、長男は松方弘樹。妻との死別後に健康状態が悪化し、1977年に脳出血で亡くなりました。

【プロフィールと生い立ち】近衛十四郎の本名・出身地・俳優人生の原点

近衛十四郎
【画像】近衛 十 四 郎 関連ショット

近衛十四郎は、時代劇の剣豪役で広く知られる俳優です。本名は目黒寅彦で、出生名は寅一。新潟県長岡市の出身で、長岡工業学校を卒業したとする人物事典の記録も残っています。

生年月日については資料間に違いがあります。長岡の人物年表や一部の人物紹介資料では1914年4月10日生まれとされる一方、コトバンクに収録された『新撰芸能人物事典 明治~平成』や『20世紀日本人名事典』などでは1916年生まれとする記載があります。誕生日は4月10日とされますが、生年の表記には資料差がある点に注意が必要です。

幼いころに父・多七を亡くし、母・ミカに育てられた近衛は、工業学校を卒業した後、映画俳優への道を選びました。家族や親戚から反対されたものの、時代劇への憧れを捨てず、1930年代初頭に市川右太衛門プロダクションの研究生となります。当時は「長岡秀樹」という芸名を使用していた時期もありました。

その後、日活京都を経て亜細亜映画へ移り、1934年公開の『叫ぶ荒神山』で主演デビューを果たします。大都映画に移籍してからは『銀平くづれ格子』『真田十勇士』などの時代劇で活躍しました。戦前の映画界で経験を積んだことが、後年の剣戟スターとしての土台になっています。

近衛のキャリアを理解するうえで見逃せないのは、最初から一貫して大スターの座にいたわけではないことです。映画会社の再編、戦争による制作環境の変化、戦後の再出発を経験しながら、演技と殺陣で自分の居場所を築いていきました。

【生涯年表と映画会社の移籍】新東宝から松竹、東映へ進んだ理由

近衛十四郎
【写真】近衛 十 四 郎 近影・注目カット

近衛十四郎の俳優人生には、映画会社の事情と時代劇市場の変化が色濃く反映されています。とりわけ、松竹から東映への移籍は、その後の代表作となる「柳生武芸帳」シリーズにつながる大きな転機でした。

1942年、戦時下の映画会社統合によって大都映画は日活、新興キネマとともに合併され、大映が発足します。大映にはすでに阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門らの大スターがいたため、近衛は十分な活躍の場を確保できませんでした。映画制作本数の減少も重なり、近衛は妻の水川八重子とともに退職金を投じて一座を結成し、各地を巡業しました。

戦後は映画界に復帰し、新東宝を経て松竹へ移ります。松竹では阪東妻三郎の死去後、時代劇の立て直しが課題となっていました。時代劇監督の大曾根辰夫に見いだされた近衛は、悪役や主役に対抗する重要な役どころを演じ、次第に主演スターとしての地位を固めていきます。

ところが、1959年に松竹が時代劇映画制作からの撤退を発表します。一方、東映は映画の大量供給を目指して第二東映を発足させており、時代劇スターの確保を急いでいました。近衛は高田浩吉らとともに移籍し、1960年から東映で新たな活動を始めます。

第二東映はその後ニュー東映へと名称を変更しましたが、興行面で十分な成果を上げられず、1961年には劇場用映画制作から撤退します。近衛らの俳優は東映本社所属となりました。しかし、この再編を経たことで、近衛は東映時代劇のなかで独自の存在感を発揮するようになります。

主な経歴を整理すると、次のようになります。

時期出来事・所属主な作品・実績
1914年または1916年新潟県長岡市に生まれる。生年は資料によって異なる本名は目黒寅彦。出生名は寅一
1934年亜細亜映画で主演デビュー『叫ぶ荒神山』
1930年代後半~戦時中大都映画で時代劇スターとして活動『銀平くづれ格子』『真田十勇士』など
1942年以降戦時統合を受けて実演興行へ妻・水川八重子と一座を結成
戦後~1950年代新東宝を経て松竹で再起『江戸群盗伝』『女ざむらい只今参上』など
1960年東映へ移籍『柳生武芸帳』シリーズなど
1964年柳生十兵衛役で剣戟スターとして活躍『十兵衛暗殺剣』『忍者狩り』
1965年以降テレビ時代劇でも人気を獲得『素浪人月影兵庫』『素浪人花山大吉』
1976年~1977年事実上の引退状態を経て死去1977年5月24日、脳出血のため死去

映画会社の移籍は、単なる所属先の変更ではありませんでした。戦前からの剣戟スターが活躍の場を失い、戦後に再起し、映画会社の再編を経て新たな代表作に出会うという、昭和の映画産業そのものを映す経歴です。近衛の成功は、変化する制作環境のなかでも、殺陣という明確な武器を磨き続けた結果でもありました。

【殺陣の評判と長い刀の秘密】近衛十四郎はなぜ剣戟の名手と呼ばれたのか

近衛十四郎
【資料】近衛 十 四 郎 報道・メディア記録

近衛十四郎を語るとき、最も高く評価されるのが殺陣です。時代劇ファンの間では、日本映画史を代表する殺陣の名手として語られ、往年の剣戟映画を振り返る際にも名前が挙がります。国立映画アーカイブが紹介する『十兵衛暗殺剣』の解説でも、近衛と大友柳太朗による琵琶湖上の一騎打ちは、時代劇映画史でも屈指の迫力を持つ場面として取り上げられています。

近衛の殺陣の特徴は、細かな技を次々に見せることだけではありません。重心の低い構えから繰り出す大きな動き、鋭い剣さばき、刀を振り切ったときの迫力が画面に強く映える点にありました。剣豪を演じても、完全無欠で軽やかな人物というより、危険な相手と対峙する浪人の威圧感や、ひと太刀の重さを感じさせるタイプです。

殺陣師の川原利一による評価を紹介する殺陣研究資料では、近衛は大きな体格にもかかわらず動きがよく、さまざまな立ち回りをこなす俳優として伝えられています。こうした評価は、近衛の魅力が体格だけでなく、実際に刀を扱う身体能力と経験に支えられていたことを示しています。

とくに注目されるのが、通常より長い刀を使ったという逸話です。紹介されている資料によると、時代劇で一般的に使われた刀身は約75~80センチだったのに対し、近衛は約85センチの刀を好んで使用していたとされます。刀を長くすれば間合いを大きく見せられる一方、重さや振り回しにくさも増します。誰もが同じように扱える道具ではありません。

近衛は手首の強さを生かして長い刀を扱い、構えたときの画面映えや、振り回した際の迫力を追求したと伝えられています。長い刀は単なる珍しい小道具ではなく、俳優の身体的な特性と映画の見せ方を結びつける工夫でした。

ここには、映画の殺陣ならではの仕組みがあります。実際の剣術の合理性だけを追うのではなく、観客に距離や速度、危険性を直感させる必要があるのです。近衛の刀は、画面上の存在感を強めるための表現手段でもありました。

また、若いころに一座を組んで各地を巡業した経験も、立ち回りの基礎を考えるうえで重要です。実演で相手役と繰り返し動きを合わせ、舞台上で見せる技を身につけた経験は、映画の殺陣にもつながったと考えられます。映画の撮影現場だけでは得にくい、相手との間合いや身体の使い方を磨く機会だったからです。

近衛の殺陣を評価するときは、技術の正確さだけでなく、動きの大きさ、間合いの表現、相手役との呼吸、画面に与える迫力をあわせて見ると、その個性がより明確になります。

【柳生武芸帳と柳生十兵衛】映画からテレビの素浪人シリーズまで

近衛十四郎の代表的な役柄として外せないのが、柳生十兵衛です。五味康祐の小説を原作とする「柳生武芸帳」シリーズでは、柳生家に伝わる秘伝書をめぐる争いのなかで、十兵衛が陰謀や刺客に立ち向かいます。近衛の重厚な存在感と豪快な殺陣は、この剣豪役と強く結びつきました。

シリーズの第一作『柳生武芸帳』は1961年の作品です。その後、『柳生武芸帳 夜ざくら秘剣』『柳生武芸帳 片目の十兵衛』『柳生武芸帳 片目水月の剣』など、複数の作品で十兵衛を演じました。作品ごとに敵や舞台が変わりながら、近衛の十兵衛像がシリーズの軸になっています。

1964年公開の『十兵衛暗殺剣』も代表作の一つです。国立映画アーカイブの作品解説では、近衛演じる十兵衛と大友柳太朗の剣客による一騎打ちが大きな見どころとして紹介されています。剣豪同士の対決を、台詞だけではなく、動作の緊張感と刀の軌道によって見せる剣戟映画の魅力が凝縮された作品です。

一方、近衛の活躍は映画だけにとどまりません。1965年に始まったテレビ時代劇『素浪人月影兵庫』では、豪快さと軽妙さを兼ね備えた素浪人を演じ、幅広い視聴者に知られるようになりました。その後、作品は『素浪人花山大吉』へと引き継がれ、近衛は剣豪としての強さに加えて、ユーモアを交えた人物像も見せています。

さらに、病気による休養を経て、1970年代には『素浪人天下太平』『いただき勘兵衛旅を行く』などのテレビシリーズで主演しました。映画で鍛えた殺陣を家庭のテレビ画面に持ち込み、剣戟映画に親しんできた世代だけでなく、テレビ時代劇を通じて近衛を知った視聴者にも存在感を示しました。

代表作を選ぶなら、柳生十兵衛の殺陣を見たい人には『柳生武芸帳』シリーズと『十兵衛暗殺剣』、近衛のユーモラスな演技も知りたい人には『素浪人月影兵庫』や『素浪人花山大吉』が適しています。前者では剣豪としての迫力、後者では人間味のある芝居という、異なる魅力を比較できます。

なお、近衛の映画出演作は剣豪ものだけではありません。『忍者狩り』『車夫遊侠伝 喧嘩辰』『座頭市血煙り街道』などにも出演しており、役柄や作品のジャンルを変えながら活躍していました。映画データベースや国立映画アーカイブの作品情報をたどると、長いキャリアのなかで多様な役柄を演じたことがわかります。

【妻・水川八重子と息子・松方弘樹】俳優一家の歩みと親子の接点

近衛十四郎は1941年、女優の水川八重子と結婚しました。水川の本名は角西やゑとされています。二人は俳優として活動するだけでなく、映画会社の統合によって仕事が不安定になった時期には、一座を結成して実演興行を行いました。近衛が戦時下に俳優としての活動を続けられた背景には、妻と協力して仕事をつくり出した時期があったのです。

1942年7月23日には長男の浩樹が誕生し、のちの松方弘樹となります。松方は父と同じ東映で俳優としての道を歩み、1961年に主演デビューしました。近衛が柳生十兵衛を演じた「柳生武芸帳」シリーズでは、松方も出演しています。1963年の『柳生武芸帳 片目の十兵衛』などでは、親子が同じ作品に名を連ねました。

近衛の次男は俳優の目黒祐樹です。兄弟とも俳優として活動したことから、近衛家は昭和の映画・テレビ界を代表する芸能一家の一つとして知られています。ただし、父と息子が同じ職業に就いたからといって、俳優としての個性まで同じだったわけではありません。近衛は剣戟スターとしての重厚さを持ち味とし、松方も独自の出演作や役柄を通じてキャリアを築きました。

近衛と松方の親子関係を考えるうえで興味深いのは、家庭内の関係だけでなく、仕事を通じた接点が作品に残っていることです。映画の共演記録は、親子の関係を具体的にたどる手がかりになります。NHKの『ファミリーヒストリー 松方弘樹・目黒祐樹』でも、二人の息子を中心に近衛家の歩みが取り上げられました。

一方、妻の水川八重子は1976年7月25日、胃がんのため亡くなりました。近衛にとって長年連れ添った妻の死は大きな打撃だったと伝えられています。この時期は近衛自身の健康状態も悪化しており、俳優としての活動を続けることが難しくなっていきました。

【晩年の暮らしと死因】1977年5月24日に何が起きたのか

近衛十四郎は晩年、映画やテレビの仕事から徐々に離れ、釣りを楽しみながら過ごすようになりました。ロケにも釣り竿を持参するほどの愛好家として知られ、日本各地で釣りを楽しんだといいます。俳優業の第一線を退いた後は、会社経営などにも携わり、京都府亀岡市では長男の松方弘樹と共同出資して釣り堀を経営していました。

ただし、晩年の暮らしは穏やかな余生だけではありませんでした。近衛は糖尿病や肝硬変、高血圧などを抱えていたとされます。1976年には体調を崩して倒れ、医師から再び倒れれば命に関わると警告されていたという記録も残っています。体調管理が必要な状況でしたが、妻の死後には生活の張り合いを失い、飲酒量が増えたと伝えられています。

1977年5月20日、近衛は亀岡市の釣り堀「天国」で、松方弘樹とヘラブナ釣りを楽しんでいた最中に倒れました。病院へ搬送された後、一時は意識を取り戻したものの、左半身に麻痺が現れ、病状は悪化していきます。5月22日夜には昏睡状態に陥り、回復することなく、5月24日午前1時55分に亡くなりました。

死因は脳出血です。近衛十四郎の最期については、当時の新聞報道を紹介する資料や近衛の経歴をまとめた年表資料にも記録されています。享年については、生年の資料差に伴って表記が異なる場合がありますが、亡くなった日は1977年5月24日で一致しています。

近衛の晩年を振り返る際、妻との死別と健康問題を切り離して考えることはできません。しかし、死の直前まで釣りを楽しんでいたことも、本人らしい一面として伝わっています。生涯を通じて身体を使う仕事に向き合い、引退後も好きな釣りに時間を費やした近衛にとって、釣り堀は晩年の生活を象徴する場所でした。

また、1976年ごろには事実上の引退状態にあったため、1977年の死去を「現役のまま突然亡くなった」とだけ理解するのは正確ではありません。体調の悪化によって活動を縮小し、生活の中心を釣りへと移していた時期に、脳出血で倒れたというのが経緯です。

【プロの結論】近衛十四郎の現在の評価と、作品を見るときのポイント

近衛十四郎の評価を考えるとき、単に「殺陣がうまい俳優」という言葉だけでは、その魅力を十分に説明できません。近衛の特徴は、身体能力、刀の扱い、カメラに映る構え、相手役との間合いを組み合わせ、剣戟を観客に強く印象づけた点にあります。

長い刀の使用は、その象徴です。刀身が長ければ動作に迫力が生まれますが、同時に扱いの難しさも増します。近衛は自分の身体的な強みを生かし、通常とは異なる道具を用いて、画面上での見え方を追求しました。これは俳優の個性が、殺陣の設計や映画の演出と結びついた例として見ることができます。

また、近衛のキャリアは、映画からテレビへと娯楽の中心が移っていく昭和のメディア史とも重なります。映画会社の再編で活躍の場を失いかけた時期を乗り越え、松竹で再起し、東映で柳生十兵衛を演じ、さらにテレビの素浪人シリーズで新たな視聴者を獲得しました。一つのジャンルにとどまらず、媒体が変わっても自分の持ち味を生かしたことが、長く記憶される理由の一つです。

2026年現在、近衛はすでに故人であり、俳優として新しい作品に出演することはありません。しかし、国立映画アーカイブの作品解説や、映画館ラピュタ阿佐ケ谷などで行われてきた特集上映の記録からは、過去の作品を通じてその仕事を再評価する機会が続いてきたことがわかります。現代の視聴者にとっては、古い映画をただ懐かしむだけでなく、当時の殺陣や撮影技法を比較する入口にもなります。

近衛の作品を初めて見るなら、次の基準で選ぶと魅力をつかみやすくなります。

  • 殺陣の迫力を重視する人:『十兵衛暗殺剣』や「柳生武芸帳」シリーズ。長い刀を生かした立ち回りや、剣豪同士の対決に注目してください。
  • 近衛の俳優としての幅を知りたい人:『素浪人月影兵庫』や『素浪人花山大吉』。剣豪役とは異なる軽妙な芝居を楽しめます。
  • 昭和の映画産業に関心がある人:戦前の大都映画時代から、松竹、東映へと移った経歴を作品の公開年と照らし合わせると、映画会社の変化も理解できます。
  • 現代の剣術映像との違いを知りたい人:実際の剣術の合理性だけでなく、刀の長さ、構えの見せ方、カメラに対する動き、相手役との間合いを意識して見ると、時代劇ならではの演出が見えてきます。

近衛十四郎は、ただ強い剣豪を演じる俳優ではありませんでした。自らの身体と道具の特性を理解し、映画とテレビの双方で、見る者の記憶に残る剣戟を作り上げた俳優です。その評価は、肩書きや伝説的な評判だけで決まるものではなく、実際の作品に触れ、立ち回りの一つひとつを見比べることで、より確かなものになります。

【近衛十四郎】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:近衛十四郎の本名と出身地は?
A1:本名は目黒寅彦です。出生名は寅一で、のちに改名したとされています。出身地は新潟県長岡市です。生年については資料によって1914年と1916年の表記があります。

Q2:近衛十四郎の代表作は何ですか?
A2:映画では『柳生武芸帳』シリーズや『十兵衛暗殺剣』、テレビでは『素浪人月影兵庫』『素浪人花山大吉』などが代表作として知られています。柳生十兵衛役では豪快な殺陣を、素浪人シリーズでは軽妙な演技を楽しめます。

Q3:近衛十四郎が長い刀を使った理由は?
A3:一般的な時代劇用の刀より長い約85センチの刀を好んで使い、構えの見栄えや振り回した際の迫力を生かしたと伝えられています。手首の強さなど、自身の身体的な特性に合わせた工夫だったとされています。

Q4:近衛十四郎の妻と息子は誰ですか?
A4:妻は女優の水川八重子です。長男は俳優の松方弘樹、次男は俳優の目黒祐樹です。松方弘樹は父と同じ東映で活動し、「柳生武芸帳」シリーズでも共演しています。

Q5:近衛十四郎の死因は何ですか?
A5:1977年5月24日、脳出血のため亡くなりました。5月20日に京都府亀岡市の釣り堀で倒れ、入院後に意識を失って病状が悪化したと伝えられています。

まとめ:近衛十四郎の生涯から見える剣戟スターの真価

近衛十四郎は、戦前の映画界で経験を積み、戦時下の苦境と戦後の再出発を経て、松竹、東映の時代劇で確かな地位を築いた俳優です。柳生十兵衛を演じた「柳生武芸帳」シリーズ、約85センチの長い刀を生かした殺陣、テレビの『素浪人月影兵庫』など、映画とテレビの双方に代表作を残しました。

妻の水川八重子とともに歩んだ俳優人生、長男・松方弘樹との共演、晩年の釣り中心の生活、そして1977年5月24日の脳出血による死去までをたどると、近衛の人生は昭和の映画産業の変遷と深く結びついていたことがわかります。

近衛十四郎の評価を確かめる最も確かな方法は、実際の作品を見ることです。剣豪役の迫力を味わうなら『十兵衛暗殺剣』、人間味やユーモアを知るなら素浪人シリーズから始めるとよいでしょう。長い刀を振るう一瞬だけでなく、構え、間合い、相手との呼吸に目を向けると、なぜ近衛が剣戟スターとして語り継がれているのか、その理由が見えてきます。 (出典: 近衛 十 四 郎(Yahoo!ニュース))